徒然草

紫野は人間味のあるアーティストになりたい

断捨離

おはこんばんにちは。

紫野です。

もう2月も後半に差し掛かりました。

もう既に師匠走り出してて草。

 

そういえば、「草」という若者言葉を覚えました。

正直チャラいし、なんだか印象悪いなと思っていましたがノリで口から出すとなかなか語呂がいい。

 

 

今月末に退去を控えた紫野は、

最近ちょくちょく八王子にある本当のお家に帰っています。

最寄り駅を突き止められてしまってからは

昼間に着替えを取りに行き、

夜は友人宅や交際相手の厄介になって、

という日々を繰り返していましたが、

(一応)卒業ということで、今のお部屋には、

挨拶をしなければなりません。

 

私は片付けが苦手です。

 

使わないのに買いたがり。

洗わないのにご飯を作りたがり。

洗濯ものもかなり溜めがち。

 

要らないものばっかり部屋に転がっていて、

 まんま「こびと」の歌詞やん、的なことを考えながら、自称断捨離王の友人に手伝ってもらっていました。

 

はるか昔、

まだ私が配信アプリをしていた頃、

誕生日祝いにファンの方々が送ってくださったプレゼントや、オフラインのライブに持ってきてくれた差し入れなど、

全部残っていて、ひとつひとつ見る度にこれはあの時だれが持ってきてくれたもので、

と思い出して浸っていました。

 

ホワイトムスクっぽいのが好きかな

と言った私に送ってくれたルームフレグランスの瓶が入っていた「箱」とか、

ライブに持ってきてくれたチョコレートの空箱とか、

プレゼントを包んであった包装紙やリボンも全部取って溜めてあって、

ドン引きされてしまったのはちょっと悲しい。

 

「本当に捨てられないの」

と言ったら

「 本当にそうだね」

と笑われました。

 

思い出の断捨離は得意だと思っていました。

 

4年間住んだ町だけれど、

正直、なんの情も慈しみも親しみもないと思っていました。

 

大学も、なんだかんだ一生懸命やったし、

楽しくなかったわけではないけれど、

学内で何かがしたくて行った大学ではなかったし。

 

ただただ、静岡の田舎を出て、

音楽をしたくて、

「上京」がしたくて、

そのために入った大学、

受かったから住んだ町。

 

友人も後輩も先輩もいない、

遊びに行ったことも、誘われたこともない。

 

大学、バイト、音楽、

大学、バイト、音楽、

大学、バイト、音楽、

 

私の4年間は、

ほとんど独りで過ごした4年間だったから、

こんな町を去るとて、

何を名残惜しく思うのか。

 

そんな風に考えていました。

 

 

 

引越し、と言っても、

今後に少しアテがある私はもう退去だけにして、

お部屋を空っぽにして返すだけにしました。

 

4年前、大学の生協から届いた生活必需品のカタログを見て母が用意してくれた冷蔵庫や、

電子レンジや、洗濯機とも、

別れることにしました。

 

でも家電って、捨てるのにもお金がかかるんです。

リサイクル法ってやつで、

下らない法律だなァと思ったんですが、

捨てるより売れるなら売るかと思ったら、

値段もつかなくて。

 

どう頑張っても想像以上のコストがかかってしまうから、はぁ、参ったなぁー

と、4年間通い続けた定食屋さんに行って、

お母さんに愚痴をこぼしていたら、

 

え!要らないの!もったいない!

うちで引き取らせて!

 

と笑。

 

今日引き取って頂きました。

お店で冷蔵庫や洗濯機や電子レンジ、掃除機、全部使うみたいで。

お礼までしてくださって。

1年生の夏、まだお金の使い方も安定しないうちに破格の安さ・美味しさだからと通いつめ、毎月の終わりには講座の残高を見て白目をむくくらい通っていたお店です。

 

お店が長期休業する時は、

キュウリやナスや、

とにかく近所の畑で取れたらしい新鮮な野菜をおすそ分けしていただいたり、

自家製のシソジュースを飲ませてくれたり、

ファミマのチーズメンチカツにハマってるんだと話をしたら、

次の日の日替わり定食のおかずになって出てきて、「メニュー考案してくれてありがとう」とケーキをサービスしてくれたり。

4年間のうちでできた好きな人の話をニコニコしながら聞いてくれるお母さんと盛り上がったり。

 

音楽のことも、応援してくれました。

サイン色紙も書かせていただいたりもしたし、

家族ぐるみでお世話になっていて、

うちの両親も大好きなお店です。

 

あのお店に行くとね、

すごく気持ちがほっとするんです。

お味噌汁の味や、

ふっくらしたご飯や、

小鉢や煮物の味が、

どことなく実家と似ていて。

 

スパイスから作っている本格的なカレーよりも、普通のおうちで作られるような、

あのお店の普通のカレーが何よりも好きでした。

 

いつも、カウンターのど真ん中で食べるの。

 

お母さんの顔を見て喋りながら食べて、

バイトさんとも仲良くなって、

お父さんやお兄さんもいつも優しくて、

家族みたいな場所なんです。

 

遠くなったら滅多に来れなくなるかもしれないけど、またおいで、と。

そう言って今日、挨拶をしました。

 

 

そういえば、

就職するのか内定取り消すのか

早く判断した方がいい、

とにかく早くしろ

と言ってくれたラーメン屋さんには顔を出せなかった。

 

私の夢を笑わないで居てくれた人です。

関さん、っていう人なんだけれど。

お店の壁にズラっとスポーツ選手のサイン色紙が置いてあって、

そのどれもが私の通う大学や、ここら一帯の大学の部活の子達のサイン色紙です。

プロになって活躍する方々、

芸能の道に進んだ人もいます。

 

俺と仲良くなった子はみんな有名になる

 

といって、有名男性アイドルの名前も話に持ち上がったことがありました。

深夜3:00までやってるお店で、

お店の中で「歌ってよ」と言われて歌ったりして、さらにはチップといってその日のラーメン代が帰ってきたり。笑

路上ライブを終えて終電を降り、

空いているお店はほとんどそこだけだったし、

「今日はどこまで行ったんだ」

「最近どうなの」

と、ひたすら麺を茹で続ける関さんと、

あんなことがあったそんなことがあったと

愚痴や弱音を吐けるのがすごく救いでした。

 

オススメは味噌。

背脂多めのスープです。

替え玉の代わりに、いつももやしを貰っていました。

味たまは必須だよ。

麺もストレートの細麺で、もう本当にかすれた喉に潤いが蘇るわけです。

ワンオペでラーメンをひたすら茹でている関さんを見るのも好きでした。

 

関さんが何とかなるよって言うと、

その日の成果がどれだけ出ていなくても頑張れるんです。

 

あとは、近所のサイゼリヤでお昼に働いている女性がいて、接客が本当に素敵な人だと思って手紙を書いたこともありました。

本当に仕事に誠実に向き合う人、というか

ひとつひとつが本当に丁寧で、

ファミレスでこんなに良くしてくれる人は初めてだと思う。

退去立ち会いの日、きっともうこのサイゼに来ることは無いだろうと思ってお店に入ったらやっぱり今日もいて。

目が痒すぎてコンタクトを入れておらず、何も見えなかったけれど、やっぱりあの安心する声がしました。

 

 

彼女の接客には「公平性」が見える。

 

通っている人、

学生、

知り合い、

 

来店者には色々な人がいるけれど、

彼女の対応と仕事ぶりはいつでも全く変わらない。

誰に対しても丁寧で誠実だからこそ安心してお店を利用できるんです。

私の考えすぎ?笑 かもしれないけれど、

いつも背筋がしゃんと伸びていて、

朗らかな声で、

ひとつひとつの言葉をはっきり伝えてくれる彼女のいるここのサイゼリヤが私は大好きだった。

 

 

そしてスタジオ。

学生料金で使わせていただいていたので、

格安すぎていつも驚愕していました。

地域ぐるみのイベントステージやライブハウスに紹介して頂いたり、

ギターの弦はいつも張ってもらっていたし、

音が変だと思った時は楽器屋さんより先に持って行って直してもらうこともありました。

 

いつも見てるよ、

体に気をつけてね、

 

と、スタジオにあまり通えなくなった私にも変わらない愛情を注いでくれるご夫婦でした。

病気になった時も、

入院があけてから顔を出した時も、

路上ライブばかりで1ヶ月以上立ち寄れなかった時も、

変わらない暖かさで包んでくれた2人です。

京王堀之内timeを紹介してくれたのもこのスタジオのお父さんでした。

 

音楽が好きで、やりたいからやる。

なんの制限も縛りもストレスもなく、

音楽が好きな人がステージに立てる素敵なライブハウス。

私もtimeに出させてもらう時は、

ノルマも集客も物販も、そういうストレスになりうるものを考えることなく、

ただただ「楽しい」と思って歌うことが出来ていたと思います。

 

ハルオさんとTomomiさんとお2人のお子さんと、

ハウスで出会う素敵なミュージシャンたち。

ライブハウスの裏側って意外と派閥や内輪が出来ていてギスギスしていたりするんだけど、

timeはいつも和気あいあいとしていて、

余裕がある人が多いんですよね。

大人が多いからって言うのもあるかもしれないけれど、だからこそいい意味で人に甘えることが出来る空間でした。

 

同じ歳頃の女の子たちが集まるライブハウスは殺伐としてて疲れてしまうから、

たまにここで音楽の息抜きをする。

 

ほっ、とした気持ちで歌を歌う。

 

「私」が呼吸をして、純粋に歌が好きな自分を思い出す、そんな場所。

 

 

 

こんな町を去る、とて。

なんの情もない。

 

そう思っていたけれど、

この街で得たものは、卒業してしまえばほとんど連絡すらとらなくなる学生同士の繋がりなんかよりももっと太くて丈夫な出会いでした。

この街で、実家よりもホッとできる場所を見つけ、

自分で作らずとも美味しいご飯を食べたり

今日こんなことがあったー

好きな人がー

と話をできる人がいて、

第2、第3の親ができ、

たくさんのミュージシャンと繋がりを作ってもらい、

「またおいで」と気にかけてくれる場所がある。

 

こんな大学、

なんで入ったんだろう。

きっとこの4年が人生最大の無駄な時間になる。

そんなふうに思っていたけれど、

1年生の夏休みには完全に大学辞めたいとばかり考えるようになっていたけれど、

この4年でこの街に住んでいてよかったと、

そう思うことが出来ました。

 

要らないものはたくさんあるけれど

断捨離したくないものもたくさんあって、

 

そして私の音楽はここから始まったんだと思います。

ここで出会った人たちが

私と、私の音楽を一緒に作ってくれたんだと思います。

私が欲しかった高校生の夏は思っていたものと違っていたけれど、

私がここで生きた4年間は、まちがいなく他の誰にも得られない、私だけの経験です。

 

 

またここに戻ってきたら、

あの定食屋さんにも

ラーメン屋さんにも

スタジオにもライブハウスにも

顔を出そう。

ただいま、を受け入れてくれる場所があることに幸せを感じるこの頃です。

 

 

また次回。

 

紫野

 

 

p.s.

お世話になった大事な場所を紹介するね。

 

:定食・信年

https://instagram.com/shinnnen1987?igshid=YmMyMTA2M2Y=

→私のサインがあります。笑

 

:ラーメン・にんにくや堀之内

https://instagram.com/ninnikuyaseki?igshid=YmMyMTA2M2Y=

 

:サイゼリヤhttps://maps.app.goo.gl/UAU79TixuqAPxh8LA?g_st=ic

 

:Pandkey Studio

https://instagram.com/pandkey_studio?igshid=YmMyMTA2M2Y=

 

:京王堀之内time Tokyo

https://twitter.com/timetokyo?s=21&t=lAm4qjqG0F26o1ExaTDCVg

 

気分がいいので写真も載せちゃう。

駅から家まで30分くらいかかるんだけど、

行きも帰りもこの川沿いを通っていました。

夕方は夕焼けがすごく綺麗で、

夜は星がよく見えて、遠くでモノレールが光っていた。

夜中にこの河川敷で練習もしてたなそういえば。

夏になると夜中にタバコをふかしながら散歩したり、ラグビー部の寮生の男の子たちが一緒に聞いてくれて、応援してもらっていた。

楽しかった。

友達や恋人が居なくても楽しかった。

ここで歌うのが好きだったなぁ。

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Farewell

おじいちゃんへ。

孫です。

2023.1.13の本日、あなたのお葬式が終わりました。

お坊さんは「気持ちよさそうに寝ている」なんて言っていたけど、寒くなかったですか。

亡くなったのはお風呂の中だと聞きました。

発見まで7日間も誰にも気づいて貰えなくて、

服も着れないまま。

風邪をひいてはいませんでしたか。

 

現場検証を行った警察は、ものを広げるだけ広げて、後片付けもしないままおじいちゃんちから出てっちゃったんだって。

私は普段からあの組織が嫌いだけど、

今回の件でもっと嫌いになりました。

人の家に上がるんだから、それくらいちゃんとしてよって思っちゃうよね。

片付けくらいしろよって、おじいちゃんに怒ってほしかったな。

 

2022.12.31

私が東京で、ファンの皆さんと来たる新しい年を祝い、道端で乾杯している間、

世界でたった1人の私の祖父がこの世を去りました。

母方の本家は、今回亡くなった祖父がずっと一人で守っていました。

祖父と祖母は、いわゆる昔の政略結婚で、

祖母は祖父のことが嫌いで、

私が物心着く前にはもう完全に別居していました。

父方は、まだどちらも健在ですが、父が結婚する前に離婚済みなので、祖母の顔しか分かりません。

だから私にとっての祖父は、

世界でたった1人だけ。

おじいちゃんへ。

本当は棺に入れたかったけれど間に合わなかったからここに書き残すことにするね。

 

昨日今日と私の実家や、母方の本家はてんやわんやで、私もお正月休みが終わって帰京したその2日後、追試の替えが効かない授業の最後のテストを受け、その日のうちに新幹線で帰りました。

 

生まれて初めての冠婚葬祭、

生まれて初めての喪服、

よくわからないままやらされたお通夜の香典受付。

 

実感が湧かないまま、儀式だけが滞りなく進み、あれよあれよと3日間がすぎました。

でも、私はお葬式まで全て終わってもずっと泣いています。

今日の夜は雨が降っているみたいです。

火葬の時にはあんなにいい天気で、目の前の富士山も綺麗だったのに、本当に何もかもが嘘みたい。

 

棺の中にお花を飾ったり、

遺骨を拾ったりするのは想像以上に辛かった。

 

糖尿病の薬を飲んでいたからなのか、

思ったより残った遺骨が少なくて、

とてもショックでした。

170cm後半はある祖父が、火葬場から出てきたらあんなにちいさな骨壷に収まってしまう。

それがまた虚しくて仕方がありませんでした。

 

熱くなかったかな、

息苦しくなかったですか。

焼いている時は私たちは中に入れないから、

待合室で味の濃いお弁当を食べていました。

全然お箸が進まなかったよ。

エビフライに唐揚げに、サザエの磯焼きに、サワラの西京焼きに、普段だったら飛びつくおかずが沢山入っていたのに、全然食欲がわかなかったの。

 

私は祖父と何回ご飯を食べただろうか。

振り返ってもほとんど記憶が無い。

そもそも静岡に帰ることすら滅多になかったから、最後にきちんと顔を合わせたのも2年くらい前なのかな。

私は東京から一日でも離れるのが嫌で嫌で仕方がなかったし、

こんなふうに突然お別れの日が来ることを全く考えていなかったから、

また今度でいっかなんて甘いことをずっと考えていました。

寂しかったよね、ごめんね。

 

お通夜もお葬式も、私の頭の中には後悔の2文字がぐるぐる回って、ほとんど寝れていないのにお経の時間も全然退屈しなかった。

 

祖父をいたわるための涙なのか

私の後悔が出している涙なのか、

これはほとんど後者だと思う。

 

訃報を聞いた時、頭の整理がつかないまま涙だけが最初に出てきたけれど、

スケジュールが立っていなかったし、

私には卒業をかけた追試のない試験も残っていた。

母と相談して、全部やりきってから戻ることにして、でも部屋にいると私までおかしな事を考えそうだったから、

死にそうな顔をして路上ライブに行きました。

何を歌っても、無理やり笑っても、

全部祖父に向けた歌のような気がして、

こんなところで何してるんだろう自分、

早く帰りたいのに、って情けなく思った。

 

 

喧嘩をしたことはなかったけれど、

寂しい思いをたくさんさせてきたと思います。

私は子供は大好きだけど、

祖母や祖父に対してはどう接していいか、

歳を追うごとに分からなくなっていきました。

できることなら、会わずに済むことまで考えていました。

お墓参りやお盆の帰省で帰った時、

いつもいちご大福やみかんやお煎餅をくれたじゃない?

時期をずらしてお正月休みにお邪魔した時は当たり前のようにお年玉やぬいぐるみをもらっていました。

だけど私は、いつも全然上手く話ができなくて。

いつも下を向いて、「うん」とか「はい」とか、短い返事しか出来なかった。

だから、今も、葬儀の間も、私が泣くのはお門違いだったんじゃないかってずっと思ってるんです。

 

小学校の頃、帰宅すると母と祖父が電話をしていた。
私と話したがっていた祖父に応えたくなくて、

「いないって言って」って言って母に怒られたこともあります。

聞こえてたよね。

あのとき、渋々電話に出た私に、

「ごめんね、おじいちゃんなんか話が長いからだよね」って謝られたことをいちばんよく覚えています。

それでも嬉しそうにお話をしてくれて、

すごく申し訳なく、恥ずかしくなったことまで覚えています。

母とはよく電話してたけど、私が成長するにつれて、私は家にいる時間が少なくなりました。

部活や勉強を終えて帰宅するのはもう21:00とか、土日はほとんど一日部活で試合や遠征に出ていたし、電話があったことすら知らなかったよ。

 

私は1度も、祖父に自分から電話をかけたことがありませんでした。

私にとって『祖父』と呼べる存在は彼だけだったのに、思春期や都合を言い訳にして、

ずっと寂しい思いをさせていた。

電話番号を母に聞こうと思ったけれど結局聞くタイミングを逃したまま、別れの日が来てしまいました。

祖父は、母方の大きな実家にたった1人で何年も暮らしていました。

1度、同居の話も持ち上がったみたいだけれど、結局有耶無耶になって無くなったそうです。

昭和の時代に建てられた一軒家は、

蛍光灯の薄暗い灯りや、雨漏りや、手すりのない急な階段、吹き抜ける寒い風で、

もう本当に寂しくて、それがまた一層、

見ているだけで辛くさせるんです。

 

祖父は狭いところが好きなのか、

2畳しかないお部屋に大きなタンスと、

小さな机と、

蛍光灯やストーブや調味料を置いていました。

そこで何をしてたか私は知ってるんだ。

興味もないのに聞かされたジオラマやプラモデルのことをよく覚えているから。

国鉄の社員だった祖父は鉄道が好きで、

1回の客間に大きなジオラマがありました。

何ヶ月もかけてあの細かいジオラマを作ったんだって楽しそうに話していました。

出来上がったジオラマの上に、作りかけの新しい模型があったんです。

法隆寺ジオラマでした。

まだ大枠しかできていなかったから、

これから何ヶ月もかけて完成させる予定だったんだと思います。

それで、また楽しそうに話してくれるつもりだったんだと思います。

 

そういえば、客間のエアコンをつけようとして、リモコンがなかったんだけどどこに閉まったの?

母や叔母がみんなで探したんだけど結局なくて今日は寒い部屋で祭壇に礼拝したんですよ。

おじいちゃんも寒いでしょう?

分かるところに置いておかなきゃダメだよ。

おじいちゃんは記憶は大丈夫だったけど、そういうところちょっと気が利かないよね笑。

 

 

そういえば高校1年生の時、クマのぬいぐるみをもらったんだけど、覚えているかな。

実は今も一緒に寝ています。

東京のお部屋に連れて行って、

クマゴロウって名前をつけたの。

対象年齢3歳って書いてあったから、

あのときはおかしくて笑ってしまったけれど、

もう今ではおじいちゃんの形見になってしまった。

 

そんなことを考えながら、おじいちゃんのあの狭い部屋に1人で篭ってたらカレンダーを見つけたの。

30日におせちが届くって書いてあった。

受け取ったんだよね?

食べなくてよかったの?

机の上に毎日の時間分、小分けにされた薬の袋を見つけました。

玄関に手押し車があって、びっくりした。

一人でお家の階段怖くなかったかな。

洗面所に、脱ぎっぱなしの服と新しい着替えが置いてあったままだったって言ってたよ。

あの埃っぽい部屋と大きな家は生きてるのに、

おじいちゃんはもう居ないんだよね?

私はまだ頭が追いついていないみたいです。

まだ会えると思っているみたいです。

 

今更になって、

もっと会いに行けばよかったとか

電話してあげればよかったって、

後悔してるんです。 

怒らないで欲しいんだけど一つ言いたいんだ。

お年玉もお菓子も要らないから、

もっと生きてて欲しかった。

 

もうお墓参りの時に、おじいちゃんのお家に顔を出しに行くことはなくなるみたいです。

いないんだもん、仕方がないよね。

でも私はまたあの引き戸を開けて、おじいちゃんに会いに行きたいです。

だめかな、もうお引っ越ししちゃったもんね。

 

私がもう記憶もないほど小さい時に、おじいちゃんと別居していた祖母にも20年振りに会いました。

もう認知症でグルグルしててね、

1分おきに「あなたはだれ?」って聞かれるの。

同じ会話をずっとしているんです。

途中からおかしくて笑っちゃった。

明るいおばあちゃんだったけど、

背中も完全にまるまってた。

おじいちゃんが亡くなったことも、何回も聞いて何回も忘れて、

「あなたのおじいちゃんは生きてるの?死んでるの?」なんて私に聞いてきたよ。

今日はあなたのご主人のお葬式だったんですよ、

って何回も説明して、私がこれ繰り返すのきついななんて思ってても、祖母は

何回も「来てくれてありがとうね」って言うの。

また何時でもこの家に来てねって、

もう誰も住まないお家に歓迎する、

って見送ってくれた。

仲が悪かったみたいだけど、

そんなの嘘みたいに明るく私たちを出迎えてくれたよ。

足もまだしっかりしていて、

横顔が私の母にそっくりで、

でも、

おじいちゃんのことを忘れてしまっているのが私はすごく悲しかったです。

仕方がないことなんだけれど。

マダラとかじゃなくて、

もう本当に認知症なんだって。

人は、忘れられた時にもう一度死ぬんだって、

聞いたことがあります。

おばあちゃんはおじいちゃんのことを病気で忘れてしまったけれど、

私はおじいちゃんのことずっと覚えています。

母はちょっと宇宙的思考回路だから、

なんかまたオカルトチックなこと言って父に弄られてたけど、あの人も妙に冷静で淡々としてたから私の方が逆に心配になりました。

母のこと、空から見守ってあげて欲しい。

 

最後に、おじいちゃんに聞きたいことがあるんです。

 

私があなたの孫でよかったですか。

私はあなたに何か恩返しができていましたか。

私はもう少し泣いていてもいいかな。

まだ会いには行けないから、

また寂しくさせてしまうけれど、

不安にはさせないように頑張るからね。

 

あなたが亡くなってから、

泣いてばかりで食わず寝れずの私を心配して支えてくれた友達やファンの方もいるからね、

おじいちゃんは何も心配しなくていいです。

直接聞いてもらったことは無いけれど、

今ならいつでもどこでも私の歌を聴いてもらえるよね。

どこまででも届くように頑張りますね。

 

お坊さんが、お釈迦様の最後の言葉をおじいちゃんに向けて読んでくれたらしいよ。

それを聞いて身を委ねれば、おじいちゃんはお釈迦様の弟子になって浮かばれるんだって。

私は説法とか仏教とか、宗派も含めてぜんぜん興味無いけど、とりあえずそれを聞いて「よかったね」って思った。

おじいちゃん、天国にいけるんだって。

いっぱいお花も渡したし、きっと綺麗なところにいるよね?

そっちのお花は枯れないんでしょう?

きっとそうだと信じています。

 

84年のうちの20年、近くにいても遠くにいても、見守ってくれてありがとう。

私はおじいちゃんの孫でよかったです。

 

今は後悔しかないけれど、

また会いに行きます。

次は笑って会いに行けるように頑張ります。

安心して眠ってくださいね。

 

 

舟出

おはこんばんにちは。

紫野です。

 

今日は、オリジナル曲の「舟出」について、ライナーノーツ的につらつら書いていきたいと思います。

 

原曲はこちら

https://www.instagram.com/reel/CjLRjDWg9Au/?igshid=YmMyMTA2M2Y=

 

私は前向きな曲とか、明るい曲とか、

そういうものをこれまで作ってきたことがありませんでした。

自分には書けないと決めつけていた節もあります。

なんだか、

元々の性分がドン引きされるくらいネガティブなので、希望とか夢とか、そんなものは「所詮」、と思い留まってしまうことが多いみたいで。

夢をね、追いかければ追いかけるほど、

自分のことが分からなくなっていくような、

そんな感覚がしていたんです。

 

大好きなフジタ カコちゃんの曲ばかり聞いているからか、「海」というテーマで音楽のことを考えるようになって、

彼女の曲にある【群青】のように、

「夢という海は深く、あまりに広すぎる。」

と絶望していたんだと思います。

まだ駆け出して2年にもならないくせに絶望なんてお門違いだったと今になると笑い飛ばせる話でもあるのですが…

 

 

 

そんなときに、舟出を作るきっかけになった舞台【世界が朝を知ろうとも】のオファーを頂きました。

 

その世界で唯一訳が分からない設定は、

「人間が存在意義を失うとムシになってしまう。

虫になれば最後、二度と人間には戻れない」

「全てのムシは人間だった可能性があるから、採取も駆除も【殺人罪】【誘拐罪】として重刑に処せられる」

というものです。

簡潔に作品のあらすじを書くと、いや、これがまた全然簡単に書けないんだな。

ある女性がただただ運がないって話なんですが、

旦那さんが蒸発してしまったんですね。

子供が欲しかった彼女が妊娠したと同時に、

夫が音楽プロデューサーを語った詐欺師に引っかかって蒸発して、

絶望の中でも頑張って産んだ子供がカマキリだった。

 

っていう話です。

彼女は、それでも自分のお腹を痛めた子供だからと【淳也】と名付けて本当に甲斐甲斐しくお世話していました。

でも、やっぱりムシだから、

ストレスが重なってしまって、

ある時こう思うのです。

「カマキリなんかのために、人間の私が何やってるんだろう」って。

そして淳也を踏み潰してしまうんです。

女性がね、

カマキリを踏み潰しながら狂っていくんです。

その様子を観客の皆さんは見せられながら、

なぞに前向きな舟出を聞かされるというそれはもうカオスな劇中歌なんです。

 

脚本家の方と沢山お話をして、

私も沢山台本を読み込み、線を引いて、

なんだか国語の授業みたいだなーなんて思いながら、考え抜いた歌詞が今の歌詞です。

脚本家の方曰く、絶望的なシーンに明るい歌を歌うことで気持ち悪さを増したいとかってことだった気がします。

上手いなぁと思いながら制作に取り掛かりました。

 

ただ、途中からは、作品がというより、

私や私の周りの人のために、

その人たちが新しいどこかへ行きたい時、

背中を押せるものになって欲しいと思うようになりました。

 

夢、とか、そういうものだけじゃなくて

「生きる」という行為には常に【選択】が求められます。

場合によっては、行きたくなくても遠くに行かなければならない時が来る。

言いたくなくても別れを告げなければならない時が来る。

 

そんな時、心の中にあるものが【希望】だとしても、【不安】だとしても、

私たちは歩いていかなければならないから、

小さな小舟を漕ぎ出さなければならないから、

せめて空に星が輝いていて欲しいと、

そういう願いを込めて作りました。

 

太陽でもいいし、月でもいいし、

その他星でもいいんです。

何か一つ、

自分が信じられるものをぼんやりとでも見つけられたら、怖くても進めるような気がして。

 

私は臆病なくせに強がりだから、

リュックの中には希望とか夢とか、

そういうものを詰めると公言するのかもしれないけれど、

本当はきっとその何倍も大きくて重い不安とか、恐怖とか、そういう気持ちが入っているんだろう。

だから少しでも気持ちを軽くしたくて、

ジャムパンを一緒に入れるんです。

美味しいものを食べたら少しは落ち着くでしょ?

 

 

舟を漕ぎ出したらもう元の場所には戻らない覚悟を持って、

私は東京に来ました。

真っ直ぐ進路を取れているかどうか、

自信はありません。

自分が思っているより、

たくさん寄り道をしたり立ち止まったり蹲ったり、

そして逆走もしているはずです。

 

でもやっぱり空を見たら光ってるものがあって、

それが今、私の救いになっているんだと思います。

迷わないでいられるのだと、

迷っても戻ってこられるのだと思っています。

 

 

皆さんは、

今いる安息の地から離れなければならない時、

旅に出なければならない時、

何をカバンに詰めますか?

 

 

また次回。

 

紫野

 

Shout(叫び)

おはこんばんにちは。

紫野です。

2022/9/22、とんでもないメンタル状態です。

舞台稽古2日目、アラームをかけ忘れてお弁当を作れずに電車に飛び乗ります。

 

 

 

近頃、終電間際の山手線新宿駅では、

けたたましいサイレンの音を鳴らしながらたくさんの消防車や救急車がバスタ前に並びます。

歌う気に、なれない。

空を飛ぶ人が立て続けに出るからです。

 

消防車が去っても歌う気に、なれない。

 

安倍元総理が亡くなられた日みたいに、

そこにいること自体、自分がとんでもなく不謹慎な気がするからです。

でも目の前には私を見に来てくれている人がいて、萎えたから帰りますなんて、口が裂けても言えません。

 

歌いながら、考えてました。

私も空を飛びたいんじゃないかって。

消えてしまいたいんじゃないかって、

考えています。

 

そしてついに、9/22、自分を壊しました。

私はもともと、ものすごく気性のブレが激しくて、成人した今でもコントロールしきれない時があります。

それで、今日、自分の中に蓄積していたものが堰を切ったように流れてきてしまって、

戸惑いながら電話をかけたのです。

 

友達も、恋人も、頼れる人がほとんどいない私にとって、おそらくは「ファン」としての存在と、

私を1人の「人間」にしてくれる存在を兼任して下さる女性に電話をかけました。

明日は勤労感謝の日、つまり祝日とは言えど、

終電から降りたらもう時間は0:30を回っているし、非常識すぎて穴に入りたいです。

でも、駅を出て家に着くまで約60分、ひたすらに付き合ってくれました。

 

申し訳ない、といつも思います。

普段はテキストベースでやり取りをしている2人なので、電話はほとんどしないですし、

歳も離れているし、

そして何より、私がずっとジメジメ毒キノコを生やしているので、話を聞いて欲しいと思うこと自体に罪悪感を感じるのです。

 

そう、私は「人を頼る」ことがびっくりするほど苦手です。

相談するのが本当に苦手です。

 

鬱病にかかった大切な地元の友達から「しにたい」と電話がかかってきたとき、

話しながら自分も蝕まれていく感触を覚えました。

 

だからこそ、自分が誰かに胸の内を明かすということは、私だけがスッキリしてしまって、相手には不快な、くらい気持ちにさせてしまうのが怖いです。

私の口からは、ちょっとした不満とか愚痴とか、そういうものはたくさん出るのに、

本当に言いたいこと・我慢していることはほとんど言えません。

多分、皆そうだと思います。

でも私がいつも相談させてもらう方々のうち、

今日遅い時間に私とお話をしてくれた方は、

キノコ菌やカビを撒き散らすだけの私に、

なぜだかお礼を言うのです。

「エネルギーを自分に使ってくれたから、それってとてもすごいことだから」って言ってくれるんです。

お礼を言うべきは私の方なのに、

私は本当にただただ蛆虫をわかしているだけなのに。

そのエネルギー移動の理屈に関しては、

今の私には分かるようで完璧には解せないところがあって、しかもその解せないポイントも不明瞭なんですが、

もっと大人になったら分かるのかな。

 

まぁとにかく、今日、なんでブログに興したかというと、

叫んだ気がしたからです。

人間が誰しも抱えるそう簡単に他人に言えるわけが無い何かを、叫んだ気がしました。

 

苦しいとか、

辛いとか、

きついとか、

しんどいとか、

そういう気持ちを空に向かってではなく、

自分ではない誰かに吐き出したのはいつぶりだろう。

何でも「うんうん」と言って聞いてくれて、

「頑張ってるね」と肯定してくれて、

否定もせずに諭すように話をしてくれる彼女に、

山手線新宿駅で毎日人が死ぬと話を振ったあと、

私も死にたいと声に出して言いました。

帰り道を歩いている足が、信号もないのに止まって、マスクの中が涙でいっぱいになって、

「死にたい」と自分の口が言ったんです。

 

毎日、気がついたら口癖のように一人で

「しにたいなぁ」

とボヤいている自分が、

今日は明確な意志を持って

『死にたい』と言いました。

 

そしたら、彼女は

「死にたい」=「きつい」「しんどい」

ってことなんだよって言ってくれたのです。

 

私は、死にたい死にたいと普段からぼやきます。

でも、じゃあ早く空を飛べと言われても足がすくみます。

飛び込みも、怖くてできません。

痛いのは嫌だから手首も切らないし、

お腹はすくから餓死もできないし、

病気に蝕まれて死ぬならまだしも、

自分から川を亘りにいく勇気は結局ありませんでした。

 

でも今日、わかりました。

私はずっと、辛かったんですね。

きつかったし、

しんどかった、

苦しかったみたいです。

 

SNS

特にTwitterは意図的にツイートを減らしているし、

Instagramでも、

緑のストーリーを見れるのは僅か7人。

嫌なことがあっても、

自分に納得がいかなくても、

結果が出せなくて悔しくても、

自分自身が商品として音楽をしている以上、

そんな簡単に1人の人間としての「私」を見せることができないからです。

弱音は吐かない、がSNS運営上最大と自分ルールです。

 

でも彼女は、

私のことを応援してくれながら、

私に「夜」を与えてくれます。

「夢追う売れないアーティスト」

から、

「21歳ただの女子大生」

に戻してくれます。

 

私は今日、久しぶりに心が柔らかくなった気がしました。

音楽や、夢を追い続けて行くために、

徐々に鉄に変え、強くなったはずの心が

今日は普通の人間の心になった気がするのです。

人間として、ずっと我慢していた悲鳴をあげることができたと思います。

 

何が辛い、

どうして辛い、

 

原因は、思いつくだけでもたくさんあります。

ファンの方々との距離感が最近おかしい気がして、1歩引いてしまうとか、

チケット枚数が減らないとか、

見ず知らずの通行人にもらうペラッペラの応援に傷つくとか、

周りの人に置いていかれている現状とか、

比較癖が抜けないこととか、

自分がどうなりたいのか見失っていることとか。

 

こんな悩みには私一人が努力したところで変わらないものも多くあります。

だから我慢していました。

どうせなんも変わらんし、

と思って。

でも、ここで辛さを吐き出したことによって、

気休めかもしれないけどやっぱり出し切った気がするのです。

 

人間になりたかったんだなぁ、

叫びたかったんだなぁ、

 

と思いました。

皆さんにはかなりのご心配をおかけしているような気もしますが、

私は今特にとんでもないスケジュールを「歳すぎる…」と思いながらきちんと日々をこなしている中、

今夜、ただの女子大生に戻ることが出来て、

烏滸がましくも、

鐘が鳴って魔法が解けたシンデレラのように思いました。

自分は急いでお城を出たりはしないのですが、

とにかく魔法が解けた瞬間楽になったんですよね。

あー、また明日から「昼」の自分になれる、

魔法をかけてもらえる。

シンガーソングライター「紫野」としてやっていけると思ったのです。

 

 

 

 

 

また次回。

 

紫野

現状と今後について

日頃応援して下さる皆様へ

 

本日、一昨日から入院していた消化器系の病院を退院し、
しばらく自宅で療養することになりました。
第1診で「盲腸」を疑念されましたが、
精密検査の結果、問題があったのは消化器系ではなく子宮だったことが分かりました。
現在は、卵管炎・子宮内膜症と併発して、
「子宮頚部軽度異形成」という状態で、
簡単に言うと子宮頸がん一歩手前という診断です。
今は1つずつ病気を治していくということで
強目の薬を頂いて来週さらなる精密検査を受けることになっています。
「まだガンになり切ったわけじゃなくてよかった」
という安心感と、予想もしていなかった医師からの病状告知に対する大きなショックが同時にあって、
1番最初に「音楽できなくなるのかな」って思いました。

頭が働かないってこういうことか、と21年生きてきて初めて思いました。

 

思えば、ストリートライブを始めとして「誰かの前で歌う」「音楽で食べられるようになる」ことを夢に掲げるようになってから、

もともとの性分にも相まって、より「休む」「サボる」といったことをしなくなりました。

1日ギターを触らないだけでものすごい罪悪感と嫌悪感と、そして何より「周りに置いてかれる」という焦りがあったんだと思います。

人の2倍努力しても追いついたり並んだり出来ないのに、自己満足の努力で音楽をやることに対してすごく嫌な気持ちがあって、

「自分にできること」が何かを考えた時、

残っていたものは「継続」だけだったからです。

3倍4倍の量と努力をこなして初めて人と並べるし、追い越せる部分が出てくるんだと感じ、

「やりすぎ」な状態を続けないと自分に自信が持てずにいました。

大事な資本である「身体」に異変が出るまで睡眠不足や栄養失調、過労・心労に見ないふりをしていたのだと思います。

将来的に、普通に家庭を持って自分によく似た子どもを産みたいと思っている自分には子宮に病気が見つかったことがとてもショックで、診断を受けてから何時間経っても頭の整理がつきませんが、今は、日頃の無茶な生活スタイルや不摂生、暇嫌いを見つめ直すための最後のチャンスなのかなぁと思うようにしました。

 

ただ、ものすごく早いスピードで「ガン」と呼ばれる状態まで進んでしまうことではないということだったので、できることから治療していって経過観察ということになるそうです。

1歩手前で止まってくれているうちに、この先も自分がやりたい音楽を気が済むまで戦えるように、きちんと病気と向き合う時間を作りたいと思います。

そこで、もともと最大で2週間のお休みを頂く予定で計画を立てていましたが、延長して4週間ほど静養に努めることにしました。

ストリートには約1ヶ月出ないことになりますが、その間にできることはたくさんしていきますし、11/12のフェスに向けて、また9/28-10/2の舞台公演に向けて、頑張っていきます。

 

急な話でビックリさせてしまったかもしれない、ごめんなさい。

 

これからも応援して頂けると幸いです。

 

 

紫野

earphone

おはこんばんにちは。
紫野です。
またしても、お久ですー。

今日はとある撮影で朝から都内に出てました。

いや、暑くね。
もう、暑くね。
ねぇ、暑くね!?

です。

歩いていて、渋谷ってほら、
微妙に緑があるじゃんね。
だから、こう、
いい感じだなーって思って歩いてたんですが、
そういえばスマホの充電無くてモバイルバッテリーに繋いでたので、
イヤホンを付けられなかったんですよね。

それで、いつも「常に音楽が耳に流れてないと耐えられない」系の自分がイヤホンを付けてないっていう死にかけのカエルみたいな状況で歩いてました。

でも、
音っていうのはイヤホンの外側にもあって、
たまにはこういうのもいいなって思いました。


信号の音
モニターの音
車の音
台車をガラガラ引く音
ヒールの音
お店に並んでいる人の会話
駅のアナウンス

とかとか、
なんでもない音に癒されて、
落ち着いたというか。
いつも覚えたいなーって思ってる曲とか、
ただ単に聴きたい曲だけを耳に入れていたから
聞かなきゃ行けないことも、
もしかしたら自分にとって有益になりえることも、
実は自分から聴き逃してたのかもしれないなって思ったんです。

風に葉っぱが揺らされてる音とか、
都内にはあまりないけど川が流れる音とか、
同じく都内ではかき消されてしまうけど鳥の鳴き声とか、
素敵な音が世の中にはいっぱいあるのに、
全然気がつけない。

心底疲れてる時にふと気がつくこともあるし、
意識してなかったけどピンと来る、
みたいなこともあるし、
気付こうとしなきゃ気付けないものだったりするんですよね。

はー、これで晴れてたら良かったのにな。

以上です。

また次回

紫野

Alone

おはこんばんにちは。
紫野です。
ブログを書こうと思って書かずに寝てしまったので急いで書いてます。

テーマは「Alone」。
懐かしい、言葉にするのが難しいくらい今よりもっともっと辛かった初期の頃を思い出しています。

昨日はGW最終日の夜でした。
人通りが少なく、さらに流れも早い駅前にポツンと自分1人がいて、活動を本格化させた頃の自分を思い出しました。

チケットを売らなければいけないのに、
1枚も売れるどころか、
人ひとりも止められない不甲斐なさ、
届ける相手がいない寂しさばかり感じていたあのころの気持ちです。
このままだったらどうしようという不安、
普段は見ないようにしていた自分の中の黒い気持ちに久しぶりに会いました。

こんなの、久々だなぁ。

って声に出るくらい本当に、久しぶりに、
「苦しいなぁ」って、
そんなふうに思ったのです。

いやぁ、参ったなぁ。

って、口角だけは上げておこうと必死でした。
昨日はたまたま、いつも応援して下さっている方が来てくださって、本当に「ひとり」ではなかったのですが、でも「独り」でした。

GWの過密スケジュール越えなども相まって体調も優れず、迷ったままその駅に行って、
ジャンルは違えど「自分たちは仲間だ」と仲良くなった大道芸のお兄さんに、
「今日厳しいですよ」と言われて
覚悟して歌い続けた90分でした。

日頃が出会いに恵まれているだけに、
上手くいかないことがちょっとでもあるとすぐに凹んでしまう。
でもそれは、本当は、
「普通」の光景に戻っただけだと思うのです。

だって、音楽なんて売れないし。
売れてないミュージシャンなんて、
白けた目で見られるのが普通なんです。
誰だこいつって、
痛いなこいつって、
なんかやってんなーって、
それが普通なんだと、
活動し始めた頃に痛いほど実感していたはずでした。
最近の自分の環境の恵まれようや羽振りの良さに、
いつの間にかマイナスな気持ちが隠れてしまって、辛くなってしまったのだと思います。

上り坂を昇り続けていると、
ちょっとした道のデコボコくらいで凹んでしまうようになるんだなぁと思いました。
今まで反骨精神や、負けず嫌いな気持ちでやって来れていた厳しい環境がいつのまにかぬるくなっていたのかなって。
それはもしかしたら、私が活動や練習を続けられているからこそ、自分から周りに与える影響がプラスに働くようになっているだけかもしれないけれど。

でももしかしたら、無自覚のうちに、
忘れてはいけないと思っていた「初心」を失いかけていたのかもしれません。

いつもその場で伝えるようにしている「感謝」の気持ち、聞いて貰えることが当たり前ではないこと、自分にとっては全てが宝物であるということ、いつもよりも重みを伴ってお伝えしたような気がします。

情けないところも出てしまったけれど、
たまにこんな日があってもいいんじゃないかな。
たまたま昨日だっただけで、
きっとまた上手くいかない日はそのうちやって来ると思うから。
でも、今までの自分と違うのは、
「独り」だった私が、
寂しさや不安に負けなかったこと。
最後までちゃんとやりきれたこと。
誰にも聞いて貰えないから、
なんて新宿駅に逃げ帰ったりしなかったこと。
偉かったね。

1人になったら1人になったで、
できることって結構あるなぁとも再実感したし、最後はあんなにたくさんの人に聞いて貰えてました。

びっくりしちゃう。
本当に自分は「0」か「100」かしかないやんかって思うくらい差が激しかったんですよ笑。

でも、最後まで歌いきれたからこそ、
歌を受け取ってくれる人に会えて、
一人ひとりにお礼を伝えることが出来て、
目に見える形で応援して頂くことも出来て、
たくさんの暖かい言葉をかけて頂けて、
何より、忘れるまじと思っていた初心にまた会うことができたと思うんですよ。

歌は贈り物です。
私にとっては、宛先不明のお手紙です。
受け取ってもらえて本当に嬉しかった。

Instagramだけは解放しているDMに、
時間差でたくさんメッセージを頂くようになりました。
嬉しい言葉がいっぱい。
何かを響かせることができたんだなって、
いつもにやにやしながら読んでます。

さてさて、今日も行ってまいります〜。



また次回。

紫野