徒然草

紫野は人間味のあるアーティストになりたい

Farewell

おじいちゃんへ。

孫です。

2023.1.13の本日、あなたのお葬式が終わりました。

お坊さんは「気持ちよさそうに寝ている」なんて言っていたけど、寒くなかったですか。

亡くなったのはお風呂の中だと聞きました。

発見まで7日間も誰にも気づいて貰えなくて、

服も着れないまま。

風邪をひいてはいませんでしたか。

 

現場検証を行った警察は、ものを広げるだけ広げて、後片付けもしないままおじいちゃんちから出てっちゃったんだって。

私は普段からあの組織が嫌いだけど、

今回の件でもっと嫌いになりました。

人の家に上がるんだから、それくらいちゃんとしてよって思っちゃうよね。

片付けくらいしろよって、おじいちゃんに怒ってほしかったな。

 

2022.12.31

私が東京で、ファンの皆さんと来たる新しい年を祝い、道端で乾杯している間、

世界でたった1人の私の祖父がこの世を去りました。

母方の本家は、今回亡くなった祖父がずっと一人で守っていました。

祖父と祖母は、いわゆる昔の政略結婚で、

祖母は祖父のことが嫌いで、

私が物心着く前にはもう完全に別居していました。

父方は、まだどちらも健在ですが、父が結婚する前に離婚済みなので、祖母の顔しか分かりません。

だから私にとっての祖父は、

世界でたった1人だけ。

おじいちゃんへ。

本当は棺に入れたかったけれど間に合わなかったからここに書き残すことにするね。

 

昨日今日と私の実家や、母方の本家はてんやわんやで、私もお正月休みが終わって帰京したその2日後、追試の替えが効かない授業の最後のテストを受け、その日のうちに新幹線で帰りました。

 

生まれて初めての冠婚葬祭、

生まれて初めての喪服、

よくわからないままやらされたお通夜の香典受付。

 

実感が湧かないまま、儀式だけが滞りなく進み、あれよあれよと3日間がすぎました。

でも、私はお葬式まで全て終わってもずっと泣いています。

今日の夜は雨が降っているみたいです。

火葬の時にはあんなにいい天気で、目の前の富士山も綺麗だったのに、本当に何もかもが嘘みたい。

 

棺の中にお花を飾ったり、

遺骨を拾ったりするのは想像以上に辛かった。

 

糖尿病の薬を飲んでいたからなのか、

思ったより残った遺骨が少なくて、

とてもショックでした。

170cm後半はある祖父が、火葬場から出てきたらあんなにちいさな骨壷に収まってしまう。

それがまた虚しくて仕方がありませんでした。

 

熱くなかったかな、

息苦しくなかったですか。

焼いている時は私たちは中に入れないから、

待合室で味の濃いお弁当を食べていました。

全然お箸が進まなかったよ。

エビフライに唐揚げに、サザエの磯焼きに、サワラの西京焼きに、普段だったら飛びつくおかずが沢山入っていたのに、全然食欲がわかなかったの。

 

私は祖父と何回ご飯を食べただろうか。

振り返ってもほとんど記憶が無い。

そもそも静岡に帰ることすら滅多になかったから、最後にきちんと顔を合わせたのも2年くらい前なのかな。

私は東京から一日でも離れるのが嫌で嫌で仕方がなかったし、

こんなふうに突然お別れの日が来ることを全く考えていなかったから、

また今度でいっかなんて甘いことをずっと考えていました。

寂しかったよね、ごめんね。

 

お通夜もお葬式も、私の頭の中には後悔の2文字がぐるぐる回って、ほとんど寝れていないのにお経の時間も全然退屈しなかった。

 

祖父をいたわるための涙なのか

私の後悔が出している涙なのか、

これはほとんど後者だと思う。

 

訃報を聞いた時、頭の整理がつかないまま涙だけが最初に出てきたけれど、

スケジュールが立っていなかったし、

私には卒業をかけた追試のない試験も残っていた。

母と相談して、全部やりきってから戻ることにして、でも部屋にいると私までおかしな事を考えそうだったから、

死にそうな顔をして路上ライブに行きました。

何を歌っても、無理やり笑っても、

全部祖父に向けた歌のような気がして、

こんなところで何してるんだろう自分、

早く帰りたいのに、って情けなく思った。

 

 

喧嘩をしたことはなかったけれど、

寂しい思いをたくさんさせてきたと思います。

私は子供は大好きだけど、

祖母や祖父に対してはどう接していいか、

歳を追うごとに分からなくなっていきました。

できることなら、会わずに済むことまで考えていました。

お墓参りやお盆の帰省で帰った時、

いつもいちご大福やみかんやお煎餅をくれたじゃない?

時期をずらしてお正月休みにお邪魔した時は当たり前のようにお年玉やぬいぐるみをもらっていました。

だけど私は、いつも全然上手く話ができなくて。

いつも下を向いて、「うん」とか「はい」とか、短い返事しか出来なかった。

だから、今も、葬儀の間も、私が泣くのはお門違いだったんじゃないかってずっと思ってるんです。

 

小学校の頃、帰宅すると母と祖父が電話をしていた。
私と話したがっていた祖父に応えたくなくて、

「いないって言って」って言って母に怒られたこともあります。

聞こえてたよね。

あのとき、渋々電話に出た私に、

「ごめんね、おじいちゃんなんか話が長いからだよね」って謝られたことをいちばんよく覚えています。

それでも嬉しそうにお話をしてくれて、

すごく申し訳なく、恥ずかしくなったことまで覚えています。

母とはよく電話してたけど、私が成長するにつれて、私は家にいる時間が少なくなりました。

部活や勉強を終えて帰宅するのはもう21:00とか、土日はほとんど一日部活で試合や遠征に出ていたし、電話があったことすら知らなかったよ。

 

私は1度も、祖父に自分から電話をかけたことがありませんでした。

私にとって『祖父』と呼べる存在は彼だけだったのに、思春期や都合を言い訳にして、

ずっと寂しい思いをさせていた。

電話番号を母に聞こうと思ったけれど結局聞くタイミングを逃したまま、別れの日が来てしまいました。

祖父は、母方の大きな実家にたった1人で何年も暮らしていました。

1度、同居の話も持ち上がったみたいだけれど、結局有耶無耶になって無くなったそうです。

昭和の時代に建てられた一軒家は、

蛍光灯の薄暗い灯りや、雨漏りや、手すりのない急な階段、吹き抜ける寒い風で、

もう本当に寂しくて、それがまた一層、

見ているだけで辛くさせるんです。

 

祖父は狭いところが好きなのか、

2畳しかないお部屋に大きなタンスと、

小さな机と、

蛍光灯やストーブや調味料を置いていました。

そこで何をしてたか私は知ってるんだ。

興味もないのに聞かされたジオラマやプラモデルのことをよく覚えているから。

国鉄の社員だった祖父は鉄道が好きで、

1回の客間に大きなジオラマがありました。

何ヶ月もかけてあの細かいジオラマを作ったんだって楽しそうに話していました。

出来上がったジオラマの上に、作りかけの新しい模型があったんです。

法隆寺ジオラマでした。

まだ大枠しかできていなかったから、

これから何ヶ月もかけて完成させる予定だったんだと思います。

それで、また楽しそうに話してくれるつもりだったんだと思います。

 

そういえば、客間のエアコンをつけようとして、リモコンがなかったんだけどどこに閉まったの?

母や叔母がみんなで探したんだけど結局なくて今日は寒い部屋で祭壇に礼拝したんですよ。

おじいちゃんも寒いでしょう?

分かるところに置いておかなきゃダメだよ。

おじいちゃんは記憶は大丈夫だったけど、そういうところちょっと気が利かないよね笑。

 

 

そういえば高校1年生の時、クマのぬいぐるみをもらったんだけど、覚えているかな。

実は今も一緒に寝ています。

東京のお部屋に連れて行って、

クマゴロウって名前をつけたの。

対象年齢3歳って書いてあったから、

あのときはおかしくて笑ってしまったけれど、

もう今ではおじいちゃんの形見になってしまった。

 

そんなことを考えながら、おじいちゃんのあの狭い部屋に1人で篭ってたらカレンダーを見つけたの。

30日におせちが届くって書いてあった。

受け取ったんだよね?

食べなくてよかったの?

机の上に毎日の時間分、小分けにされた薬の袋を見つけました。

玄関に手押し車があって、びっくりした。

一人でお家の階段怖くなかったかな。

洗面所に、脱ぎっぱなしの服と新しい着替えが置いてあったままだったって言ってたよ。

あの埃っぽい部屋と大きな家は生きてるのに、

おじいちゃんはもう居ないんだよね?

私はまだ頭が追いついていないみたいです。

まだ会えると思っているみたいです。

 

今更になって、

もっと会いに行けばよかったとか

電話してあげればよかったって、

後悔してるんです。 

怒らないで欲しいんだけど一つ言いたいんだ。

お年玉もお菓子も要らないから、

もっと生きてて欲しかった。

 

もうお墓参りの時に、おじいちゃんのお家に顔を出しに行くことはなくなるみたいです。

いないんだもん、仕方がないよね。

でも私はまたあの引き戸を開けて、おじいちゃんに会いに行きたいです。

だめかな、もうお引っ越ししちゃったもんね。

 

私がもう記憶もないほど小さい時に、おじいちゃんと別居していた祖母にも20年振りに会いました。

もう認知症でグルグルしててね、

1分おきに「あなたはだれ?」って聞かれるの。

同じ会話をずっとしているんです。

途中からおかしくて笑っちゃった。

明るいおばあちゃんだったけど、

背中も完全にまるまってた。

おじいちゃんが亡くなったことも、何回も聞いて何回も忘れて、

「あなたのおじいちゃんは生きてるの?死んでるの?」なんて私に聞いてきたよ。

今日はあなたのご主人のお葬式だったんですよ、

って何回も説明して、私がこれ繰り返すのきついななんて思ってても、祖母は

何回も「来てくれてありがとうね」って言うの。

また何時でもこの家に来てねって、

もう誰も住まないお家に歓迎する、

って見送ってくれた。

仲が悪かったみたいだけど、

そんなの嘘みたいに明るく私たちを出迎えてくれたよ。

足もまだしっかりしていて、

横顔が私の母にそっくりで、

でも、

おじいちゃんのことを忘れてしまっているのが私はすごく悲しかったです。

仕方がないことなんだけれど。

マダラとかじゃなくて、

もう本当に認知症なんだって。

人は、忘れられた時にもう一度死ぬんだって、

聞いたことがあります。

おばあちゃんはおじいちゃんのことを病気で忘れてしまったけれど、

私はおじいちゃんのことずっと覚えています。

母はちょっと宇宙的思考回路だから、

なんかまたオカルトチックなこと言って父に弄られてたけど、あの人も妙に冷静で淡々としてたから私の方が逆に心配になりました。

母のこと、空から見守ってあげて欲しい。

 

最後に、おじいちゃんに聞きたいことがあるんです。

 

私があなたの孫でよかったですか。

私はあなたに何か恩返しができていましたか。

私はもう少し泣いていてもいいかな。

まだ会いには行けないから、

また寂しくさせてしまうけれど、

不安にはさせないように頑張るからね。

 

あなたが亡くなってから、

泣いてばかりで食わず寝れずの私を心配して支えてくれた友達やファンの方もいるからね、

おじいちゃんは何も心配しなくていいです。

直接聞いてもらったことは無いけれど、

今ならいつでもどこでも私の歌を聴いてもらえるよね。

どこまででも届くように頑張りますね。

 

お坊さんが、お釈迦様の最後の言葉をおじいちゃんに向けて読んでくれたらしいよ。

それを聞いて身を委ねれば、おじいちゃんはお釈迦様の弟子になって浮かばれるんだって。

私は説法とか仏教とか、宗派も含めてぜんぜん興味無いけど、とりあえずそれを聞いて「よかったね」って思った。

おじいちゃん、天国にいけるんだって。

いっぱいお花も渡したし、きっと綺麗なところにいるよね?

そっちのお花は枯れないんでしょう?

きっとそうだと信じています。

 

84年のうちの20年、近くにいても遠くにいても、見守ってくれてありがとう。

私はおじいちゃんの孫でよかったです。

 

今は後悔しかないけれど、

また会いに行きます。

次は笑って会いに行けるように頑張ります。

安心して眠ってくださいね。